み仏の教えとともに食用こんにゃく伝来 こんにゃくはサトイモ科の多年生植物で、原産地はインド、セイロンあたりとか…。 東南アジアや中国の奥地には今も野生のものがあるようですが、食用として栽培しているのは日本だけです。 中国の辞書にも、現代は「蒟蒻」という字はないといわれています。 さて、このこんにゃくがわが国にいつ渡来したかは諸説ふんぷん。 さといもなどと一緒に、数千年前、縄文時代に伝えられたという説もあります。 記録上では、大和時代に医薬用として朝鮮から渡来とされています。 食用としては、おそらく仏教とともに、日本に渡ってきたのでしょう。 小野小町も食べた?平安時代から普及 多くの和歌を集めて平安中期に編まれた『拾遺和歌集』には、「野を見れば 春めきにけり青かつら こにやくままし 若菜摘むべく」という歌が見られます。 こんにゃくを加工して食べたのは、この頃からでしょう。 こんにゃくと魚の合戦『精進魚類物語』 室町時代になると、都の路上でこんにゃくを売る姿が見られるほどになり、精進料理にも使われはじめました。 当時は一日二食だったために間食があったらしく、僧院では「糟鶏(そうけい)」といって薄いみそ煮にしたこんにゃくおでんのようなものを食べていたようです。 また"二条関白"とよばれた和歌の名手二条良基(よしもと)は、こんにゃくなどの精進ものと魚が合戦をまじえる物語を書きました。 「祇園林(ぎおんばやし)の鐘の音聞けば…」と有名な『平家物語』をもじっています。 一生の贈り物…一日おきにこんにゃく 佐賀藩祖の鍋島直茂は名君といわれた方ですが、幼いころに修行したお寺の住職にお礼として「何なりと望みの品を」と申されました。 その答は意外にも「一生の間こんにゃくを食べたく思います」 そのため住職の在世中は一日おきに使者をつかわし、こんにゃくを贈り続けたと、『葉隠(はがくれ)』に記されています。 こんにゃくの人気がよくわかりますね。 妻の願いが通じて夢枕にこんにゃく玉 豊臣秀吉が肥前の名古屋(なごや)城を築いたとき、石工の頭領、九朗衛門が急な腹痛で重態になりました。 妻が神前に水ごりして快方を祈ると、「汝の夫の病は、体内に、多数の砂石あり。信心に感じて秘薬を与えん」とお告げがあり、気づいたらこんにゃく玉がありました。 それでこんにゃくを造り夫に食べさせたら、みるみる回復。 無事お役を果たしたということです。 この話を聞いた諸国の大名は、こんにゃく芋をそれぞれの領地に持ち帰って広めたといわれます。 俳聖はこんにゃく好き「さしみも少し梅の花…」 江戸時代になると、こんにゃくはすっかり庶民の食べ物になりました。 「蒟蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花」 この句は、元禄六年の春、松尾芭蕉が亡くなった妹のことを思いながら弟子に詠み送ったもの。 こんにゃくを詠んだ句はこの他にもあり、また直筆の月見の献立にこんにゃくの煮物が登場するなど、俳聖はかなりのこんにゃく好き。 狸が化けてこんにゃく汁 こんにゃく料理として当時、田楽、おでんに並ぶものに、精進料理の狸汁があります。 これは昔、本物の狸を使っていたものを、ナマグサをきらってこんにゃくで代用したのだとか。 ごぼう、だいこんと一緒に、油で炒めたこんにゃくを煮た汁のようです。 弥次さん喜多さん名物の田楽でひと思案 ご存知『東海道中膝栗尾』で、羽津(津市)の宿場に泊まった弥次さん喜多さん。 夕食のお膳を見ると、三つの皿にこんにゃく、焼け石、みそが入っています。 ハテサテ、どう食べるのか、思案に暮れるところがおもしろおかしく書かれていますが、宿の主人の説明によるとこんにゃくを焼け石で叩いてよく水分を出し、みそをつけて食べるのだとか。 羽津の宿場の名物、ということです。 「ぬかるみを毎日歩くこんにゃく屋」 こんにゃくが多くの人に食べられるようになると、江戸のことわざや川柳にもいろいろ登場してきます。 こんにゃくの裏表(どっちとも分からない)、こんにゃくの木登り(ふるえ上がる)、坊主とこんにゃくは田舎がよい、などなど…。 昔のこんにゃく屋は、桶に入れた原料を両足でこねて作っていたことから、「ぬかるみを毎日歩くこんにゃく屋」「こんにゃく屋桶で地だんだふんでいる」と、川柳もさまざまです。 コンが尽きたらコンを食べよ 「精根尽きた」という言葉がありますがこんなときには、だいこん、れんこん、こんぶ、こんにゃく、ごんぼうなどを食べればよいと、貝原益軒の『養生訓』に…。 同じころにできた絵入りの百科事典、『倭(わ)漢三才図絵』には、「俗にいう、こんにゃくは腹中の土砂を下ろし、男子最も益ありと。そのよるを知らずといえども、さい病(呼吸気病)を治すに効あり」などとして、こんにゃく健康法を説いています。 葵(あおい)のご紋でこんにゃく道中? 幕末に近づくと、こんにゃくから凍りこんにゃくにしたり、糊にしたりで、需要がだんだん増えていきました。 財政難にあえいだ水戸藩は、領内の名産こんにゃく原料を江戸や大阪で専売して、苦しい台所の足しに…。 武士の商法とはいえ、品質を落とす者が出たら入牢(にゅうろう)申しつけるとまで手厳しい品質管理を行いました。 その名産地保内郷の農民、中島藤衛門は、こんにゃく芋を乾燥して粉にすることを考案。 製法の一大進歩をもたらしました。 風船爆弾作りのこんにゃく糊 こんにゃくが後にも先にも、ただ一度兵器になった――第二次大戦中、直径十メートル、全長が二十二メートルもある大きな風船爆弾を一万個も作るために、日本中のこんにゃく玉が集められたということです。 こんにゃくで糊を造り、和紙をはり合わせて水素を通さない気球に仕上げ、アメリカ本土を無人爆撃という、壮大なプランでした。 ステーキ、サラダ、ハンバーグ…ああ、"新こんにゃく百珍" こんにゃく料理七十六種を集めた『蒟蒻(こんにゃく)百珍』が世に出て大受けしたのが、江戸の末期(弘化三年)のこと。 現代はまた、おふくろの風味から中華風の炒め物、洋風ソテーやサラダまで、こんにゃく料理花盛りです。 ローカロリーの新健康食こんにゃくがブームを呼んでいる一つの表れでしょう。 こんにゃくのできるまで 生芋 こんにゃく芋の多くは、比較的山間部の冷涼な地でしかも排水のよい傾斜地が適地。 ここに五月ごろ種芋を植え、晩秋にかけて収穫した生子(きご)を、翌年度植えつけたものが一年玉です。 翌年これをまた植えて二年玉とし、さらに翌春植えて秋に掘り上げたのが三年玉です。 種芋から三年がかり。 植え付けから収穫、冬期の貯蔵など、非常に労力がかかります。 こんにゃくのできるまで 切り干し 秋に収穫した生芋は、まず切り干しに加工されます。 もとは生芋を薄く輪切りにして串に刺し、農家の庭先などに干したものですが、今は農協や問屋の火力乾燥機にかけ、三時間ほどで切り干しに仕上げます。 といっても、選別から調整、水洗、細断などの工程は相当の手間がかかります。 こんにゃくのできるまで こんにゃくの原料 この切り干しを、見た目にも美しい精粉に二次加工します。 ここでは、まじり物がなく、グルコマンナンが変質せず、糊(のり)力のある粉に仕上げなければなりません。 そのため、高度の技術を要し、この道十年といわれるゆえんになっています。 こんにゃくのできるまで こんにゃく(製品) こんにゃくの原料に、目的に応じた割合の水を加え、よく練ってからカルシウムを加え、これを混ぜ合わせて整形箱に入れてかため、かたまったら熱湯でアクを抜きます。 現在は製造設備がととのい、全自動的にこんにゃく製品が製造されています。 ※当社は全自動ではなく手延べ製法によって製造しています。 |
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